DISCOGRAPHY
1. TRULY ME
2. NOW & FOREVER
3. NIGHTTIME
4. PASSING PICTURES
5. LUCKY JOE
6. WATER SHE WORE
7. TWO PEOPLE TOGETHER
8. HAZY NUN
9. FRAGMENTS
10. HAPPINESS
11. I CAN BE IN LOVE,TOO
12. PRETTY WHITE BIRD
走り去るロマン
今、聴いてみると、少し、英語の発音がかたいかなと、思うアルバム。
当時の僕は、誰も成功したことのない、『日本人の英語のオリジナルアルバム』を完成させる、ということだけに、ひどくこだわっていたし、その結果、日本人では誰もやったことのない、新しい挑戦的なアルバムを作った気になっていた。
だから、できあがったアルバムは、カッコイイけれど、とっつきにくいアルバムだと思っていたし、気持ちが入りすぎている分、曲も歌い方も迫力があって少しうるさいぐらいだと思っていた。
しかし、今、聴きかえしてみると、テンポといい、サウンドといい、歌い方といい、驚くほど暖かい。おまけに、カッコイイというよりは、とっつきやすい。僕が思っていたのとは、全く逆だ。言ってみれば、なごみ系の元祖のようなアルバムだ。つくづく、一生懸命になりすぎると本質は見えないものなのだなあ、とあきれてしまう。
ただ、音は挑戦的ではなくても、姿勢が挑戦的だったのは確かだ。アレンジも曲も、誰にも似てなくて、すごくオリジナルだ。自分では、ビートルズに似ているのでは、と心配していたのだが、そんなことは全然ない。
結局、このアルバムは、ジャケットと『HAPPINESS』だけを入れ替えて、1979年5月に発売し直されることになる。当時、このアルバムを聴いた人は、暖かい気持ちになっただろうか。
1. TRULY ME
2. NOW & FOREVER
3. NIGHTTIME
4. PASSING PICTURES
5. LUCKY JOE
6. WATER SHE WORE
7. TWO PEOPLE TOGETHER
8. HAZY NUN
9. FRAGMENTS
10. HAPPINESS
11. I CAN BE IN LOVE,TOO
12. PRETTY WHITE BIRD
走り去るロマン
1975年に発売された『走り去るロマン』のジャケットと『HAPPINESS』だけを入れ替えて、1979年5月に発売し直されたアルバム。
せっかく美容院(当時は専属のヘアーメイクの人はいなかった。おまけに、スタイリストもいない)に行って髪の毛をセットしてきたのに、撮影前、アートディレクターに、いきなり髪の毛をびしょびしょにされてしまい、あせった時の写真が使われている。
当時、天然パーマの僕の髪は、洗ってそのままにすると、ごちゃごちゃになって見苦しいと言われていたのだが、このジャケット写真は、とても写りがいい。カメラマンもアートディレクターも、プロの仕事をしている。
LYENA
1. SOMEWHERE ALONG THE WAY
2. SLEEP MY ANGELS, SLEEP
3. LYENA
4. CASA BLANCA LADY
5. DON'T WANT TO SAY I LOVE YOU
6. THE FINAL SHOW
7. AFTER THE RAIN
8. THERE'LL ALWAYS BE A CHORUS
作った時のイメージでは、とても濃厚なサウンドというイメージがあったのだが、今聞いてみると、意外とあっさりしていて、聞きやすいアルバム。ただ、歌い方に少々、余裕がないかんじがするのは、気のせいだろうか。(今、余裕があり過ぎるのか?)
1980年当時、人気に追い立てられていたせいで、余裕がなかったのだろうか。いや、気持ち的には、最初のアルバムを作った時よりも、はるかにリラックスしていたはずだ。その証拠に、アルバムのライナーノーツは自分で『しょうもない軽口』を書いている。(プロデューサーとの会話になっているが、実は、全て僕の創作だ。スタジオの中で、制作中に書いた。)
今思い出したが、シルクロードの映画を作るために、宗教革命中のイランに行ったのは、このアルバムのレコーディングが終わってすぐだったような気がする。
レコーディング中も、現地が外国人にとっては危険な状態だという情報が入っていながら、それでも撮影に行くか、行かないか、で、判断がつかずに中ぶらりんの状態だったのを覚えている。
そんな状態の国に行くのは、その国にとっても迷惑なはなしだし、自分たちも危ないのだから、今だったら、絶対に行かないのだが。当時は、やはり、若かったのだと思う。結局、行くことになった。
もしかしたら、危険なところに行くかもしれない、という漠然とした不安が、歌を余裕のないものにしてしまったのだろうか。
作品が、名曲(自分でそう思う)ばかりなので、非常に好きなアルバムの一つだ。
白い街角
SIDE A
1. 白い街角
2. ソー・ベイビー
3. ピアノ・ブルー
4. 月夜のバースデー
5. ロッカ・バイ・ナウ
SIDE B
1. 涙のレモン・ドロップス
2. さよならのラブレター
3. エンドレス・ロード
4. ハード・ワールド
5. グレープ・シード
日本語でアルバムを作らなきゃ、という使命感のもと、超人的ながんばりの末に作り上げたアルバム。
日本語ばかりで、しかも、マイナー(短調)の曲ばかりをつなげたので、非常に評判がわるかった。実は、いい曲がたくさん入っているアルバムなのだが....。
元々、全ての曲が、英語で書かれているのだから、同時に、英語バージョンのアルバムも出せばよかったのに、と後悔している。
暖かさを通り越して、哀愁を感じるアルバムだ。
泥棒日記
SIDE A
1. トゥナイト(LOVE YOU TONIGHT)
2. ホット・ナイト(HOT NIGHT)
3. グッド・ガール(GOOD GIRL)
4. ユー(YOU)
SIDE B
1. ローラ
2. 傷ついたハート、
ひきずって I LOVE YOU
3. テイク・ア・チァンス
(TAKE A CHANCE)
4. スィンキング・オブ・ユー(THINKING OF YOU)
80年代に確かに存在した、『サウンドの画一化の波』の影響をうけていながらも、オリジナルなアプローチを追求したアルバム。
80年代は、新しい楽器(シンセやサンプラー)がすごい勢いで進化をしたために、あらゆるミュージシャンがその進化に追い付いて行こうと、頑張った時代だった。だけど、その結果、今聞きかえしてみると、残念なことに、どのアルバムもみんな同じようなサウンドになってしまっている。
僕は、その波の中でも、みんなとは違うことをしようともがいていたらしい。きれいなメロディーを新しいリズムに乗せる方法を考え出したり、コードがあまり変わらない中で、全体を変化させる方法などだ。
僕の試みは、けっこう成功していて、ほとんどの曲がとてもかっこいい仕上がりをしている。
ちなみに、このアルバムの曲には、一つも英語で書かれた曲がない。これも、僕にとっては大きなチャレンジだった。
Don't Turn Back
SIDE A
1. WINTER GREEN AND SUMMER BLUE
2. LOVE IS FOR FREE
3. TURN BACK
4. ROCK THE PLANET(FOR EVERYONE)
5. DUET
SIDE B
1. BORN TO BE FREE
2. THIS TIME - IT'S FOREVER
3. I'M MISSING YOU
4. YOU BRING THE RAIN
ギター以外の楽器を全て、コンピュータで演奏させたアルバム。(たぶん、日本では初めての試みだったはず。)他のアーティストに提供するためやアニメの主題歌などに書き下ろした曲を自分でカバーしたアルバムだった。 その頃僕は、楽器をコンピューターに演奏させるのが、面白くて、他のアーティストに曲を提供する時も、アニメの主題歌を書き下ろした時も、わざわざ、時間をかけて、手の込んだデモテープ作っていた。
依頼先の人たちは、そのデモテープを聞いて、いい曲だ、カッコイイと喜んでくれていた。
ところが、不思議なのは、その後だった。出来上がりを聞いてみると、ことごとく、僕がつくったデモテープのアレンジとちがったものになっているのだ。先方のアレンジャーたちの意志だったのか、それともディレクターの趣味だったのか、まあ、僕としては、肝心のメロディーを勝手にいじられているわけではないので、よしとしていたが、気分的には、相当納得のいかない状態だった。
そのせいだと思う。当時の事務所から、他のアーティストに提供するためやアニメの主題歌などに書き下ろした曲を自分でカバーするアルバムを出さないか、と言われた時に、すぐ、デモテープのアレンジを元にしたアルバムを思い付いた。
オリジナルのアレンジの方がいいのに、という抗議の意味も含めて作ったアルバムだ。
HELLO/GOOD NIGHT
1. HELLO
2. I CAN BE IN LOVE TOO
3. MY SUMMER GIRL
4. EMPTIEST FEELING
5. LYENA-DON'T OPEN UP TO STRANGERS(SOLITUDE)-LYENA
6. IT'S GOOD TO BE HOME AGAIN
7. TRULY ME
8. KEEP IT MOVING GIRL
9. THINKING OF YOU
10. KEEP ON DREAMING
11. I BELIEVE IN MUSIC
12. GOOD NIGHT
タイトル曲のHELLOとGOOD NIGHTと、もう一曲を除いては、今までの曲のセルフ・リメークをしたアルバム。
前作で僕の色がすごく濃くでていたので、こんどは、淡白にしようと思って、いろいろな人にアレンジを頼んで作った。全体としては、あっさりとしていて、聴きやすい。ヴォーカリストとしての自分もいいもんだ、と思わせてくれる作品。
DON'T TURN BACK で使ったコンピューターをこの時使わなかったのは、前作の時に、まだまだ、コンピューターを使うことに限界があることを知ったためだ。なんの限界が一番辛かったかというと、体力的な、限界だった。
まず、レコーディングの時は、自宅からコンピューターと楽器を(多い時はシンセサイザー10台ぐらい)スタジオに運び込まなければならない。そのためには、自宅の作業のために繋がれている無数のコード類を全てバラさなければならないのだ。この時、完全に、コンピューターと楽器を、同じ状態に戻すために、全てのセッティングをメモしておくことも、わすれてはならない。
当時、僕が使っていた楽器やコンピューターはとても新しいものだったので、事務所の人間は、誰も扱えなかった。だから、ここまでは、僕がいつも、ひとりでやった。
次に、楽器やコンピューターをハードケースに入れる。(これは、人に手伝ってもらえる)
続いて、車にそれらを積み込んで、スタジオに向かう。(これも、人に手伝ってもらえる)
スタジオに着くと、楽器やコンピューターを車から降ろして、ケースから出す。(これも、人に手伝ってもらえる)
次に配線を行う。これは、もちろん、僕にしかできない。配線が整ったら、こんどは、自分でコンピューターをオペレートしながら、スタジオのエンジニアと一緒にレコーディングの作業に入る。実際にレコーディングをしている時間は短い。すでに、アレンジはできていて、楽器を演奏させるデータも自宅で作ってきているからだ。
楽器のレコーディングが終わったら、次は唄だ。僕は、その時、コンピューターのオペレーターから、いきなり歌手になる。(家ではアレンジャーの顔も持っている)
唄が終わったら、今度は、完成させるためのトラックダウンの作業に入る。このとき、僕は、いきなり、プロデューサーだ。スタジオのエンジニアにあれこれ指示をだす。
作業が済んだら、また、楽器やコンピューターをハードケースに入れる。(これは、人に手伝ってもらえる)
続いて、車にそれらを積み込んで、自宅に向かう。(これも、人に手伝ってもらえる)
自宅に着くと、楽器やコンピューターを車から降ろして、ケースから出す。(これも、人に手伝ってもらえる)
ここで、手伝った人は帰る。そして、ひとり仕事部屋で、配線を行う。最後に、配線がうまくいっているかチェックを行う。これも、もちろん、僕にしかできない。
ということを、レコーディングの度(『DON'T TURN BACK』だけでなく、この間、何枚か企画もののアルバムをこのやり方で作った)にやっていたので、体力的に限界を感じたのだ。この時、僕は、無理なことは止めようと誓った。正しいチョイスだったと思う。
今のように、体力も時間も無駄にしないで、良質な自宅録音ができるようになるのは、このときから、さらに、10年以上の年月が必要だったのだから。
I Love You
1. HIGH LIFE
2. 君のために
3. I LOVE YOU
4. KISS もういちど
5. 君だけ
6. TRAGEDY OF LOVE
7. WELCOME TO MY PARADISE
8. あの娘は SEXY
9. LET THE SPIRIT WALK IN
10. HAPPY BIRTHDAY
不思議なようだが、初めてアメリカ(ニューヨーク)で作ったアルバム。
録音は全て日本で済ませて、トラックダウンだけニューヨークで行った。スタジオの中が日本のそれと何も変わらなかったので、拍子抜けしたが、この時のエンジニア(ミキサー)が、当時の日本にいないタイプで、とても優れていたので、来てよかったと納得したのを覚えている。
80年代そのもののサウンドを作る人だった。今の時代では、古く感じてしまうかもしれないが、それでも、それぞれの音の鮮明さがすばらしい。僕は今でも、自分が作った音の良し悪しを決める判断基準に、このアルバムを使うことがある。
当時(最近5年ぐらい行ってないから今はどうか知らないが)、ニューヨークは非常に危険な街として有名だった。道をフラフラ歩いていようものなら、すぐに、何人もの悪そうな人たちに囲まれて、身ぐるみはがれてしまう、と、まことしやかに囁かれていた。
そのせいもあって、僕にとって、ニューヨークのセッションは、非常に刺激的だった。
ニューヨークに着いてすぐ、繁華街の中にあるそのスタジオを訪ねた時は、確か、昼間だった。その時は、スタジオの場所を確認だけで、それ以上は、別になにも考えなかった。
僕達が、。。。。に失敗したことがわかったのは、セッションのために、その日の夜中、二度目に、スタジオを訪れたときだった。僕達は、そこがニューヨークだということを忘れて、スタジオの近くにホテルをとった。歩いて行き来ができて、便利だろうと思ったのだ。おまけに、時差を考慮して、スタジオの作業を、夜中に設定していた。
夜中のニューヨークは恐い。ホテルを出て、数歩でゾッとした。スタジオまで地下鉄でひと駅。タクシーでは、近すぎてとても乗れない。必然的に歩くことにしていた。
歩いて、びっくりしたのは、だれも、信号で止まらないことだった。車がいなければ、歩行者は赤でもどんどん渡っていく。信号が赤なのに道をわたることに抵抗のある僕達(一行は4人ぐらい)は、他の歩行者と関係なく、最初は、止まった。しかしすぐに、どうして、みんなが交差点で止まらずに歩いていくのかの理由がわかった。
赤信号でとまっていると、交差点でたむろっている何人もの悪そうな人たちが、スーッとよってくるのだ。気配を感じた僕たちは、あっという間に、赤信号の中、交差点を渡っていた。
そのあと気付いたのは、道にたくさん、悪そうな人たちが、なにもしないでただたむろっているいることだった。この人たちは、目を合わせようものなら、すぐに寄ってくるぞ、という気配をプンプンとみなぎらしていた。ぼくたちは、とたんに、旅行者気分をすてて、ニューヨークのビジネスマンのように、一心不乱に前だけを見て歩くことにした。
やっとのことで(たった2分ぐらいだったと思う)、スタジオのある建物に着いて、驚いた。となりのビルの一階がストリップ劇場だったのだ。あやしい色のネオンがこうこうとついていて、あやしい人たちが客引きをしている。僕達は、そこを、いかにも店に入っていくように通って行って、となりのビルに入らなければいけないのだ。たいへんだった。
客引きの人達をかわして、スタジオのあるビルに入っても安心ではなかった。スタジオは最上階(ペントハウス)にあるので、エレベーターに乗らなければいけないのだが、そのエレベーターホールが、ビルに入ってすぐのところにあるのだ。
つまり、外のネオン街から、直ぐのところにあって、しかも、外から丸見えで、おまけに、誰でも入って来れるという不用心さだった。(ような気がする)
とにかく、エレベーターホールでエレベーターを待つ間が、一番ドキドキした。
毎日が緊張の連続だった。(別に、となりのストリップ劇場に行きたい誘惑と戦ったのでたいへんだったという意味ではない)
というわけで、僕にとって、非常に思いで深いアルバムであるとともに、好きなアルバムだ。
予感
(1)GAME ~opening~
(2)DANCE! DANCE! DANCE!
(3)二人寝のララバイ
(4)GOOD OLD DAYS
(5)EXTRA
(6)別れの予感・・・アリ
(7)今夜
(8)LET ME TAKE YOUR HAND
(9)星の数程の愛
(10)NO NO NO
(11)ルール無用じゃないさ
(12)GAME ~closing~
マイアミへ行って作ったアルバム。
当時の、僕は、ライブに少しマンネリをかんじていて、理屈抜きですごく盛り上がる方法はないか、と探していた。その頃、ライブでドラムを担当していたスタジオミュージシャンがラテンが好きで、いつのまにか、次は「ラテンだ!」と盛り上がっていた。
前回のニューヨーク録音で世話になったコーディネーターと連絡をとっていたら、ラテンのアルバムを作るのなら、マイアミがいいとのことだった。おまけに、マイアミには、当時のラテンロックで一番人気だったグループ、マイアミサウンドマシーンが作ったばかりのスタジオがあるから、そこを借りることができるか、連絡してみる、と言っていた。
数日後に興奮気味の彼から連絡があった。
そのマイアミサウンドマシーンのリードヴォーカル、グロリア・エステファンが自動車事故にあって、ワールドツアーが中止になったというのだ。そして、たぶん、他のメンバーや、エンジニアが、スケジュールがあいているかもしれないから、スタジオだけでなく、メンバーも、エンジニアもおさえていいか、という確認だった。
僕としては、すごいはなしだとは思ったが、本当にそんなことができるのかと、あまり、信用していなかったところ、また彼から連絡がきた。
全て「OK」ということだった。
スタジオとエンジニア(ミキサー)を2週間、メンバーは2曲分、セッションにつきあってくれる約束をとったと彼は言っていた。僕らは、喜んで、マイアミに向かった。
今回も、その二曲を除いて全てレコーディングし終えたテープを持って行った。前回のニューヨークと違って、マイアミは広いし、そのスタジオは郊外の高級住宅地にあったので、今度は全て、車での移動になった。そのおかげで、直接に、恐い目にはあわないで済んだ。(マイアミの街の中は、危ないらしいという噂があったので、一度も行かなかった)
ミュージシャンたちも、エンジニアも、本当に最高だった。食事を食べるように、あたりまえに音楽を演奏できるし、表現できる人たちだった。自分の同類を見るようで、うれしかった。
今きいても、ぜんぜん古くない。それどころか、今、にピッタリかもしれない。いいアルバムだ。
ザ・ベスト・オブ・タケカワユキヒデ
1. TRULY ME
2. NOW AND FOREVER
3. NIGHTTIME
4. PASSING PICTURES
5. PRETTY WHITE BIRD
6. ハピネス
7. UNCLE JOHN
8. SOMEWHERE ALONG THE WAY
9. SLEEP MY ANGEJS SLEEP
10. LYENA
11. アフター・ザ・レイン
12. ドキ・ドキ・サマーガール
13. 白い街角
14. ROCK TO THE MUSIC
15. トゥナイト
16. WINTER GREEN AND SUMMER BLUE
17. TURN BACK
18. BORN TO BE FREE
19. HELLO
20. GOOD NIGHT
知らないうちに発売されていたアルバム。
第一期コロムビア時代に作った「走り去るロマン」「レナ」「白い街角」「泥棒日記」「DON'T TURN BACK」「HELLO/GOOD NIGHT」の6枚のアルバムと、アルバムにおさめられていない何枚かのシングルで構成されている。
わかりやすい選曲で、よくできていると思う。ただ、「白い街角」と「泥棒日記」からの曲が少ないのは残念。そうすれば、初期の作品から今の僕の作品への流れが、はっきりと見えたはずなのだが......。
まあ、どれも、いい曲だから、よしとしよう。
ファンタジア
1. やさしい風
2. ONE BY ONE
3. 星の伝説
4. ファンタジア
5. エンジェル
6. ロレーヌ
7. 夢を眠らせないで
8. 愛はあなたの微笑みだから
9. 愛を確かめたい
10. サハラ
11. CREME DE LA CREME
12. WHAT LOVE CAN DO
ロンドンに行って作ったアルバム。
このアルバムで、僕は、今の作風を完成させたと思っている。
一見、簡単そうで、でもアイディアを秘めたメロディー。ポイントを一つに絞った、話し言葉の歌詞。曲によって表現の仕方を変えるヴォーカル。
でも、なにより、今の作風に限り無く近いのは、全体を包んでいる、『暖かさ』だろう。この頃から、自分の作品の長所は、『暖かさ』が表現できるところなのではないか、と気付きはじめていたふしがある。
知らないうちに、最初のアルバムを特徴づけていた、『暖かさ』に、20年近く経って辿り着いた、というのも、できすぎた話しで、照れてしまうが、そういうのもありかな、と思っている。